Baatarismの溜息通信

政治や経済を中心にいろんなことを場当たり的に論じるブログ。

ソーニャ・チップの経済学的分析

今日のエントリーでは、蓬莱学園においてかつて使用されていた「ソーニャ・チップ」と呼ばれる私造通貨について、議論したいと思います。

蓬莱学園について

蓬莱学園というのは一般にはあまり知られていない存在なのですが、東京から南に二千キロ、太平洋に浮かぶ宇津帆島という孤島にある高等学校です。しかし非常に能力の高い生徒が多数在籍し、学校の運営が生徒自身の手で行われていることで、その筋の専門家の間では有名です。
この学園は元々「ほうらい会」と呼ばれる世界的な軍産複合体(「影の政府」と呼ぶ人もいます)が裏から操っていたのですが、1990年に学園で内戦を含む大きな動乱が発生した結果、「ほうらい会」の勢力は学園から追放され、事実上日本から独立した存在となりました。学園の生徒会や各委員会が行政を司り、営利活動を行うクラブが経済を握り、軍事活動すらクラブ活動(後に学防軍として再編されましたが)として行われているこの学園には、日本政府ですら手が出せない有様です。
しかし、この学園では1990年以降政情不安が頻発し、政治や社会の混乱が年中行事となっています。今回議論する「ソーニャ・チップ」も、1992年夏休みの社会混乱の中で誕生したものです。

1992年の事件

1992年春、学園では「二級生徒問題」というスキャンダルが明らかになりました。その内容は多くの団体が労働力不足を補うために「二級生徒」と呼ばれるニセ生徒を買い、人権を無視して奴隷的な労働を強制していたというものです。この事件は数年に渡って学園を揺るがすことになりましたが、1992年に限ればこれから説明する大混乱の前章にすぎませんでした。
6月、学園が長い夏休みに入った直後、学園の金融を司っていた学園銀行から膨大な預金が引き落とされ、銀行からの引出が事実上不可能になる事態が発生しました。経済は一気に超デフレ状態となり、学園は大混乱に陥りました。
この混乱の中、学園の大手クラブが発行する私造貨幣である「学札」が幅広く流通するようになりました。しかし多くの団体が学札を発行していたため、団体の信用度に応じてそれらの学札の間で交換レートが発生し、日々大きく変動する状態となりました。やがてそれらの学札で生徒の支持を集めていったもの、それが「悪徳大路」という暗黒街を根城とする賭博師上がりの女生徒、ソーニャ・V・枯野(からの)が発行した「ソーニャ・チップ」だったのです。

ソーニャ・チップの説明

ソーニャ・チップは貨幣の性質と宝くじの性質を併せ持った通貨でした。貨幣としての機能は他の学札と同様です。しかしソーニャ・チップ紙幣や硬貨には一連の番号が振られていて、定期的に行われる当選発表で、「当たり」の番号と倍率が発表されます。紙幣や硬貨が「当たり」だとその倍率だけのソーニャ・チップが支払われ、所有者は多額の当籤金を得ることができました。
このように生徒の射幸心を煽ることで、ソーニャ・チップは急速に支配的な通貨としての地位を獲得したのです。

ソーニャ・チップの分析

ソーニャ・チップは一生徒が発行した通貨であり、それ自体に何の価値もないどころか、発行主体への信用も最初はありませんでした。せいぜいソーニャ・V・枯野が支配する悪徳大路で使用を強制できたくらいでしょう。
しかし一度ソーニャ・チップの流通が始まり、ソーニャ・チップによる大儲けの情報が広まるや、一攫千金を求める生徒はソーニャ・チップを求めるようになり、他のどの通貨よりもソーニャ・チップでの支払いを求めるようになりました。
一般的に言えば、このように無制限に通貨を発行していけば、果てしないインフレを招くはずです。しかし、当たりの期待値は所有するソーニャ・チップの額に比例しますから、生徒はできるだけソーニャ・チップを貯め込もうとします。そのためソーニャ・チップを発行すればするほどその流通速度は低下し、マネーサプライの増大が押さえられたと考えられます。そのため、ソーニャ・チップはハイパー・インフレを起こすことはなく、生徒の信用を獲得しました。

ソーニャ・チップの終焉

しかし、夏休みの終わりと共にソーニャ・チップの価値は崩壊しました。その原因はソーニャ・チップの運営が中央銀行のように金融の専門家によって組織的に行われたのではなく、ソーニャ・V・枯野の賭博師としての勘で行われていたことにあったと考えられます。
夏休みの終わりに発生した空中饗宴事件(彼女が関わった慈善饗宴事業の会場だった飛行船が炎上した事件)の後、ソーニャ・V・枯野は行方不明となり、彼女一人の才覚に頼っていたソーニャ・チップは信用を失いました。

後日談

空中饗宴事件の後、学園の混乱を憂いた陸軍クラブ「軍事研究会」の一派を中心としたクーデターが発生、その武力をバックにした「救学委員会」が実権を握り、学園の建て直しに乗り出します。しかし救学委員会は内部対立と迷走を繰り返し、七週間後に生徒会を復権させざるを得ませんでした。この事件は後に「野鼠政変」「七週間軍政」と呼ばれるようになりました。