Baatarismの溜息通信

政治や経済を中心にいろんなことを場当たり的に論じるブログ。

専門性の敗北?

今日も今日とて、息子の学校での「対策会議」に行ってきた。ウチの子の学校は、アメリカの中では「レベルが低い」と言われるカリフォルニア州の、お金持ちでもない小さい学区のフツーの公立校。それでも、いつも対策会議のたびに、そのノウハウや仕組みにいちいち感心してしまう。


ウチの息子は読み書きの学習障害があるが(詳細は「視覚発達障害」カテゴリー参照)、ビジョン・セラピーやここまでの種々の対策のおかげで、読むほうはだいぶよくなってきた。今回は、これまでの進歩の様子を確認して、この先どういった対策が必要かを判断するためのテストをした結果の報告と、その後の方針を話し合うミーティングだった。


(中略)


本当に、涙が出そうになってしまう。3年前に対策会議の対象に指名されたときは、どうしようかと思った。フラストレーションがひどくて授業中に問題行動を起こしたり、家でもずいぶんキレて荒れていた。それが、ここまで来られた。こうして細かく分析してもらうと、問題を絞り込んでピンポイントで対策もできるし、専門家が指導してくれて、経験豊富だから「この程度の時間でこの程度までいけそう」という目標も立てられるし、これまでの進捗からすると、きっと達成できるだろうという希望も持てる。本人にも、分析結果とこれから何をやるかを説明して、本人も納得した。こうしてちゃんと対策をとるようになってから、「ボクはバカなんじゃない。これさえ克服すればいいんだ。」と自信も持てるようになり、人が変わったように明るくなり、意義がわかっているから、セラピーにも積極的に取り組んでいる。


一方、もし私たちが日本にいたら、と思うとぞっとする。日本の学校も、私の子供の頃からはずいぶん変わっていると思うが、それでも夏の体験学習や補習校の感じを見ていると、とてもここまで、体系的にテストして分析することも、それに基づいて専門家が指導してくれることも、きっとないだろうと思う。

豊かな時代の教育とは:「こいつらにはやっぱかなわねー」と思うこと - Tech Mom from Silicon Valley


アメリカ・シリコンバレー在住のid:michikaifuさんのお子さんには読み書きの学習障害があったのですが、現地の公教育では専門家によるサポートが非常に良く整っていたので、お子さんもきめ細やかな対策を受けることができたそうです。そしてid:michikaifuさんは「もしこれが日本だったら…」という思いを抱いているそうです。


この記事にこんなコメントがついていました。

専門性の勝利 『のんびりしていて、大雑把そうで要所要所では素人の思いつきではなく、専門的知見を活用するのがアメリカの強みですね。日本の教育現場では、「自尊心?なにバカなこと言ってんの?ダメならダメって引導下してやるのも教師の役割でしょ」みたいな、教育心理学の研究成果全否定(というか知らない)教師が普通にいますからね。素人国家の弊害は大きいと思います。
学校教育の中で心理学的知見に基づいたコミュニケーション・スキルを教えれば最近問題になっている「社内のコミュニケーション不足」もかなり改善されると思うのですが。
心理学をやった者からすると、個人の経験に依存しすぎていて、心理学的に「人間関係を悪化させるとしか思えない」コミュニケーション方法を取っている人が日本人には非常に多いのです。「知らない」ことの恐ろしさを感じます。』


確かにこのコメントの方が言うとおり、要所要所では専門的知見が活用されるのがアメリカの強みなのでしょう。そして専門的知見を無視した結果、日本では数多くの問題が発生していると思います。このことは教育やコミュニケーションだけではなく、政治や経済の分野でも言えると思います。
例えばアメリカFRBと日銀の金融政策を比較しても、経済政策の分野でどちらが専門的知見を生かしているかは明らかでしょう。また、経済学の専門的知見を無視してグレーゾーン金利を撤廃したツケも、ヤミ金融や自己破産の増加と言う形でそろそろ出てきているようです。
あと、マスコミの医療報道には医療の専門的知見を欠いていると批判されてますし、教育再生会議にも教育の専門的知見を欠いているという批判があります。軍事分野でも平和団体やその支援者による専門的知見を無視した主張は多いです。


アメリカでも時々専門的知見を無視した意見が広がることはあるようですが、要所要所ではちゃんと専門的知見が尊重されているように思います。何故日米でこのような差が生まれるのでしょうね?