Baatarismの溜息通信

政治や経済を中心にいろんなことを場当たり的に論じるブログ。

テポドンの経済学

 一連の北朝鮮関連の報道については個人的に違和感を感じることばかりだが、中でもおかしいと思うのが、北朝鮮政権の一連の行動に関する「意図」については盛んに分析・憶測がなされる一方で、それに反応する日本政府の「意図」についてはほとんど問題にされない、という点である。

 ゲーム理論やその応用分野である制度分析をもちだすまでもなく、多くの人は「政府」が常に国民全体の利益を最大化するために公平な意思決定を行う、という前提がいかに怪しいものか、感覚として理解しているはずだ。政府は常にそれ自体の利害を追求して行動するし、そういった政府の私的利益の追求を防ぐための制度的な枠組みが不十分なもとでは、往々にして選択される政策のゆがみ、すなわち「政府の失敗」が生じる。これは北朝鮮の政府であろうがアメリカ政府であろうが変わらない。

 現に、日本においてもこと景気対策に関しては、麻生政権の「隠された意図」「私的利益」を指摘するがかなりおおっぴらに語られている。しかし、「定額給付金政策や15兆円の景気対策は、選挙の票稼ぎのためのバラマキであってその効果は疑わしい」と公言する野党の政治家も、「北朝鮮への「ミサイル」迎撃ごっこは麻生政権の人気取りに過ぎない」と正面切って批判する様子は見られない。それはなぜであろうか。

 例えば迎撃に関して世論が騒然としていた時期において、政府が取るべき最も望ましい行動は、きちんと説明責任を果たす、すなわち物体落下のリスクと迎撃のコスト、さらに迎撃以外の対処方法などをきちんと検討し、最も望ましいと思われる方法について国民の理解が得られるよう努力することであろう。。

 しかし十分な能力がない政権がそのようなファーストベストの選択を行おうとすると、かえって支持を失ってしまう可能性がある。そのような無能な政権にとっての合理的な行動とは、十分に検討するコストをかけず、説明責任も果たさず、「脅威」を強調することによって自らの決定を正当化すること−すなわち今回の麻生政権の行動−である。しかしその判断は政権にとっては合理的であっても、国家全体としては明らかに合理的ではない。この意味では、今回の政府の行動− 本来取る必要がなかった迎撃体制をとったこと−は典型的な政府の失敗ではないのか?

 このような政府の失敗が見過ごされてしまうのは、リスクとコスト(機会費用を含む)に関する議論がきちんとなされていないからであると思える。重大な被害をもたらすリスクを避けることは確かに望ましい。しかしそれを避けるために大きなコストがかかるならば、リスクが実際に生じる可能性、防止法の有効性とそのコストの大きさの、代替的手段の有無を踏まえたうえできちんとした検討が行われるべきである。

 例えばかつて、アメリカ産の牛肉は狂牛病をもたらすリスクがあるので輸入すべきではない、という議論が存在した。これに対しては安全性を重視する観点から支持する人もいたが、ただ、その場合でも輸入を禁止することがそれなりのコストを伴う(吉野家で牛丼が食べられなくなる)ということは認識されていた。そして、そのコストが狂牛病というリスクを避けるために果たして必要なものか、という点で議論が行われた。そしてその結果、米国からの牛肉輸入は再開された。

 一方、常識的には迎撃体制をとることはそれなりのコストが伴う(外交上の緊張・あるいは迎撃ミサイル自体の安全性やコストなど)ことも誰にでもわかるはずである。それらを政府が国民に対して十分に説明し、それに基づいて激しい議論が闘わされるというならまだわかるが、いつのまにか迎撃体制をとることが当たり前であるかのような空気が政府とマスコミの共同作業によって醸成されていったように思える*1。

 そのことを示すように、経済政策を議論する際にはあれだけ政権担当能力を疑われたり、政策が人気取りだといって批判されながら、一連の迎撃騒ぎが生じてからは首相の判断能力を問う声がほとんど聞こえてこなくなった。漢字が読めず、知性の疑われる首相に経済政策を任せるわけにはいかないが、外交・防衛上の決定については判断をゆだねてもよい、ということであろうか。

 もとより、北朝鮮のとった行動はいささかも支持されるものではないが、だからといってそれに対する日本政府の反応が検証なしで正しいということもありえない。その意味で、今回の政府の行動を批判するのにイデオロギーは必要ない。むしろ必要なのは、政策の当否を、コストとベネフィットの観点から合理的かつ現実的に判断し批判すること、そう、「経済学的思考」そのものではないだろうか。

経済学的思考のすすめ - 梶ピエールの備忘録。



梶ピエール(id:kaikaji)さんのこの記事に、僕は以下のようなコメントを書きました。

Baatarism 2009/04/14 21:13
今回のテポドンの件については、例え確率が非常に低くても、北朝鮮が打ち上げに失敗して日本国内に墜ちてきたときのリスクが非常に大きいので、迎撃体制を取るというコストをかけることは妥当だったと思います。
あと、この場合、迎撃以外の対処方法は存在しないでしょう。政府は単に取る必要があったから、迎撃態勢を取ったのだと思います。そこに特別な「意図」などないでしょう。



ただ、後でゆっくり考えてみて、自分でも考えが変わってきたので、もう一度論じてみることにしました。


まず、北朝鮮が打ち上げに失敗して日本国内の市街地に墜ちてきたときの経済的な損害は大きいでしょう。しかし、その一方で、北朝鮮が打ち上げに失敗して日本の国土に落ちる可能性はもともと非常に小さいですし、北朝鮮も失敗時に備えて爆破装置は搭載していたようです。だから、テポドンが日本に落ちる可能性はほとんどゼロだったでしょう。さらに落ちたとしても市街地以外の場所に落ちる可能性も考えられます。
従って経済的な損害の観点で考えれば、今回の打ち上げにおける日本のリスクは小さく、恐らく迎撃態勢に費やしたコストには見合わなかったと思います。


しかし政治的に考えると、憲法13条で「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」と定められているように、国民の生命を尊重することは国の義務でしょう。だから、国民の生命が脅かされている場合、当然国は守る努力をしなければならないことになります。
つまり、この国の政治的な仕組み自体が、国民の生命のコストを非常に高く見積もっていることになります。*1


僕は麻生政権が「脅威」を強調することによって自らの決定を正当化したというよりは、むしろ迎撃態勢を取らなかった場合の国民からの批判を恐れたのだと思います。「この国の体制が国民の生命のコストを非常に高く見積もっている」のであれば、そのような批判の正当性も高いでしょう。そのような政治的な冒険を冒すわけにはいかなかった、それが麻生総理の考えだったと思います。そして野党も同じように考えたため、政府批判をできなかったのでしょう。


また、そのように考えると、経済学的思考によるコストとベネフィットのトレードオフも変わってくるでしょう。政治的な「意図」など持ち出さなくても、国民の生命には経済的な損害を大きく上回る政治的なコストがあると考えれば、麻生政権の行動は正当化できることになります。


経済学的思考を行う場合でも、コストをどのように定量化するかは考える人次第です。政策を論じる場合、そのような定量化は考える人のイデオロギーに左右されてしまいます。だからこそ、経済学者の間でもイデオロギー的な観点(保守、リベラル、市場肯定/否定、政府肯定/否定など)で意見が食い違ってしまうのでしょう。*2


というわけで、経済学的思考に基づいても、コストの評価によっては麻生政権の行動を正当化できてしまいます。これが経済学的思考の限界なのかもしれませんね。w

*1:北朝鮮による拉致被害者の問題や、イラクで人質になった日本人ボランティアの問題は、政治的立場を超えて国民の生命のコストが非常に高く見積もられている事を示す好例かもしれません。

*2:人でなしの経済理論-トレードオフの経済学」の第9章参照。