Baatarismの溜息通信

政治や経済を中心にいろんなことを場当たり的に論じるブログ。

腐敗や緊縮はなぜ起こるのか

最近、僕が読んだ本の中に、ジェイン・ジェイコブズの「市場の倫理 統治の倫理」があります。元々は、僕がこのブログでも取り上げたことがある山岸俊男氏や松尾匡氏の著書で内容が取り上げられていたので興味を持ったのですが、たまたま最近復刊されたこともあって読み始めたところ、夢中になってしまいました。

asin:4480097163:detail

この本では、古今東西の様々な道徳律を2つのタイプに分類して、それぞれを「市場の倫理」と「統治の倫理」と呼んでいます。

市場の倫理 統治の倫理

  • 暴力を締め出せ
  • 自発的に合意せよ
  • 正直たれ
  • 他人や外国人とも気やすく協力せよ
  • 競争せよ
  • 契約尊重
  • 創意工夫の発揮
  • 新奇・発明を取り入れよ
  • 効率を高めよ
  • 快適さと便利さの向上
  • 目的のために異説を唱えよ
  • 生産的目的に投資せよ
  • 勤勉なれ
  • 節倹たれ
  • 楽観せよ

  • 取引を避けよ
  • 勇敢であれ
  • 規律遵守
  • 伝統堅持
  • 位階尊重
  • 忠実たれ
  • 復讐せよ
  • 目的のためには欺け
  • 余暇を豊かに使え
  • 見栄を張れ
  • 気前よく施せ
  • 排他的であれ
  • 剛毅たれ
  • 運命甘受
  • 名誉を尊べ
「市場の倫理」は商業や生産、科学に関係する職業に見られるもので、「統治の倫理」は政府や軍隊、宗教、独占企業などに見られものです。さらに言えば、「市場の倫理」は取引(trading)に関する道徳、「統治の倫理」は占取(taking)に関する道徳です。
先に述べた山岸俊男氏は、この「統治の倫理」と「市場の倫理」を、「安心社会」(閉じたメンバーの中で相互監視することで、お互いを信頼することなく安定した人間関係を築き、安心を得られる社会)と「信頼社会」(開かれたメンバーの中で信頼出来る相手を見極めることで人間関係を築く、信頼に基づいた社会)に対応させています。 また、山岸俊男氏も松尾匡氏も、「統治の論理」を日本の伝統的な「武士道」、「市場の倫理」を日本の伝統的な「商人道」に対応するものとして、日本社会を「武士道」が重んじられる社会から「商人道」が重んじられる社会へ変えていくべきだと論じています。日本はまだまだ「安心社会」や「武士道」、つまり「統治の倫理」に基づいた「ムラ社会」が根強く残っていますが、経済発展や市場経済の浸透にともなって「ムラ社会」が解体されるにつれて、これまでの倫理が通用しなくなっているので、「安心社会・武士道・統治の倫理」から「信頼社会・商人道・市場の倫理」への移行という観点で、ジェイコブズの考え方が受け入れられやすいのでしょう。
ただ、ジェイコブズの本を読むと、彼女は「統治の倫理」と「市場の倫理」は人類社会が最初から持っている2つの倫理体系であり、この2つの倫理体系を混ぜ合わせることで倫理的破綻が生じることを問題視しています。欧米では昔から2つの道徳体系が両立しているため、「移行」という観点はあまりないのでしょう。 このような倫理体系の混合による倫理破綻の例としては、犯罪組織(ジェイコブズはシチリア系のマフィアを取り上げてますが、日本で言えばヤクザが典型的でしょう)、旧ソ連などの共産主義国不良債権となった発展途上国への融資、アフリカの狩猟採集部族であったイク族を定住させて農業をさせようとした結果、腐敗し略奪を行う集団になってしまったこと、アメリカの投資銀行が行ったLBO(買い入れによる買い占め)による企業の敵対的買収、アメリカ軍産複合体などが取り上げられています。 このような倫理混合による破綻を防ぐために、歴史的には統治に関わる階級と商業に関わる階級を分けることが行われてきました。日本の江戸時代の「士農工商」もその一例でしょう。ただ、日本の江戸時代は一般的なイメージよりも階級間の人の移動は大きかったのですが。 統治階級は「取引を避けよ」の倫理を守って商業活動に関わらず、商業階級は下級階級とされて統治には関われませんでした。ただ、統治階級は治安を維持し交易を暴力から守ることで商業階級を保護し、商業階級は金銭面で支援することで統治階級を助けました。そのようにして、2つの倫理体系は並存していたのです。 ただ、近代社会では身分制は否定されていますので、このような方法をとることはできません。そのため、人々は「統治の倫理」と「市場の倫理」の両方に従う必要があるわけですが、倫理の混合を防ぐために、その時の状況によってどちらの倫理体系を選択するか、自覚して自分のモードを切り替えることが重要であるという結論となっています。
ただし、この本は原書が1992年、日本語版が1998年に発売された本であり、著者のジェイコブズも2006年に亡くなっています。そのため、それ以降に起こった事件については取り上げられていません。 ただ、この本を読んでいると、最近の事例についても、倫理混合による問題をいくつか指摘することができます。
まず思いつくのは中国の腐敗でしょう。習近平政権になって積極的な腐敗の摘発が進められていますが、そのために失脚した共産党幹部の中には、1兆円を超える不正蓄財をしていた者も何人かいました。政治家や官僚の腐敗は世界中のどの国でもありますが、これだけの規模の腐敗は中国くらいでしょう。また、中国は政府のトップから個人レベルに至るまで、あらゆるレベルに腐敗が及んでいます。 このような中国の腐敗は、ジェイコブズが取り上げていた共産主義国の腐敗と基本的には同じものですが、市場経済導入によって経済規模が拡大し、それと同時に共産党支配による「統治の倫理」と、市場経済導入による「市場の倫理」の混合が果てしなく進んだ結果、10億を超える人口を抱える国家と社会全体が腐敗してしまったのだと思います。 具体的に言えば「統治の倫理」の「取引を避けよ」が無視されて、共産党のトップから末端役人までが自分の利益のために、自分の職務権限を「取引」に使ってしまったため、汚職がまん延したのでしょう。さらに中国の多くの企業は国営企業なので、そこも汚職に巻き込まれ、さらにそこと取引していた民間企業や外国企業、個人にまで汚職が広がったのだと思います。 もちろん民主主義国にも腐敗はあります。最近だと上から下まで不正経理が蔓延していた東芝や、環境規制をごまかすために、テスト中だけ規制をパスするようなソフトウエアをディーゼル自動車に組み込んでいたフォルクスワーゲンが代表的な例でしょう。ただ、民主主義国の場合、社会全体、国家全体が腐敗してしまうことはなく、どこかで不正が露見して歯止めがかかります。 習近平汚職追放を政権の最大の課題にして、強権を振るって汚職摘発を行っていますが、このような見方から考えれば、共産党支配を終わらせて民主的な政治制度を確立するか、市場経済を統制して経済発展を諦めるか、そのどちらかしか中国を腐敗から救う道はないことになります。共産党が自らの支配を終わらせることはないでしょうから、このまま汚職追放を続けていけば、いずれは経済衰退しか道がないことがはっきりすると思います。
次に思いつく事例は、リーマンショックを招いたアメリカ金融業界の腐敗です。ジェイコブズの本ではLBOを取り上げていましたが、2000年代に入ると、これまで住宅ローンを組めなかった貧しい人々にローンを組ませ、多数のローンをリスクに応じて分割したり、別々のローンを組み合わせたりして、リスクが少なくて利回りが良く見える金融商品に仕立て上げて、大量に販売する手法が編み出されました。これが「サブプライムローン」です。 この方法は住宅価格が上昇しているうちは、ローンの借り換えで支払いができるため破綻しなかったのですが、住宅価格が下落するとローンを払えない人々が続出し、家を差し押さえても十分な担保にならないため、金融商品の購入者に約束した利息を払えなくなりました。さらに多くのローンがバラバラにされたり混ぜ合わされたりしていたため、どのサブプライムローン商品がどれだけ損失を出しているのかすら分からなくなり、これらのローンを大量に抱えてた金融機関の経営危機に発展しました。この危機はFRBなど各国の中央銀行が金融機関の救済と大規模な金融緩和を行ったため、世界大恐慌再来の寸前で食い止められたのですが、それでも破綻を食い止められなかった金融機関が出たことや(リーマンショックの語源となったリーマンブラザーズがその代表です)、日本のように大規模な金融緩和を躊躇して大不況に陥った国が出たこともあって、今なお世界経済に大きな傷跡を残しています。
このように、「統治の倫理」と「市場の倫理」の混合は、世界有数の大国が丸ごと腐敗したり、世界大恐慌を引き起こしかねない原因となってるのです。ジェイコブズが存命なら、間違いなくこれらの問題を論じていたでしょう。
ここまで述べてきた腐敗の問題は、ジェイコブズの本を読んだことのある方なら納得してもらえると思います。ただ、僕はこの本を読んでいるうちに、もう一つ「統治の倫理」と「市場の倫理」の混合による大きな問題が発生しているのではないかと思うようになりました。 それは「緊縮」です。
現在、日本では消費税増税を予定通り行うか、延期もしくは凍結するかが大きな政治的問題となっていますが、今は国債金利も低く、急速なインフレや円安の危険もなく、むしろデフレや円高が懸念され続けています。世界的にも経済成長の低下が大きな問題になっていて、これまで行われてきた大規模な金融政策だけではなく、各国が財政政策も行うという合意が、先日のG20でもなされています。客観的に見れば、今、増税を行う理由はないでしょう。 しかし、それでも財務省をはじめとして消費税増税固執する官僚、政治家、マスコミ、経済学者は少なくありません。 ジェイコブズの本を読んでいて、彼らが消費税増税固執する理由、さらには世界的に「緊縮主義」が広がっている理由も、「統治の倫理」と「市場の倫理」の混合にあるのではないかと思うようになりました。 「市場の倫理」に「節倹たれ」という項目があります。分かりやすく言えば「節約せよ」ということでしょう。「緊縮主義」を信奉する人々は、この倫理を無自覚のうちに「統治の倫理」と混ぜ合わせてしまっているのではないでしょうか。 政治家や官僚は統治者であり、「統治の倫理」に従わなければなりません。彼らに経済政策を助言する経済学者やエコノミストも、その時は「統治の倫理」に従うべきでしょう。 しかし「節倹たれ」は「市場の倫理」ですから、これを「統治の倫理」と混ぜ合わせることは倫理的破綻を生じさせます。そのような倫理的破綻が最も分りやすい形で生じたのは、実は東日本大震災のときだったと思います。

東日本大震災から5年がたった。3月11日のテレビではこれまでの5年を振り返った放送が多かった。筆者は5年前の3月11日は大阪にいたので、大震災はほとんど体感しなかったが、東京の家では本箱、コンピュータが倒れて大変だった。当日は新幹線が動かなかったので大阪に一泊して、翌朝早くに東京に帰ってきた。

大震災の状況は大いに気になったが、その過程で、当時の菅政権が野党の自民党谷垣禎一総裁と組んで「復興増税を企んでいる」という情報が入ってきた。

これは経済学を学んだ人なら、すぐ間違いとわかる政策だ。課税の平準化理論というものがあり、例えば百年の一度の災害であれば、100年債を発行して、毎年100分の一ずつ負担するのが正しい政策である。その当時、大震災という重大事に何を考えているのかと大いに憤った記憶がある。

そこで大震災直後、2011年3月14日付けの本コラムで「「震災増税」ではなく、「寄付金税額控除」、「復興国債の日銀直接引受」で本当の被災地復興支援を 菅・谷垣『臨時増税』検討に異議あり」(http://gendai.ismedia.jp/articles/-/2254)を書いた。正直言えば、大震災直後の人命救助が重要なときに、復興モノを書くのはためらったが、時の菅政権のあまりの非常識に怒ったわけだ。

このときの増税勢力は勢いがよかった。大震災で、多くの人が被災者を助けたいという「善意」を悪用して、復興増税は結果として行われた。

経済学者も情けなかった。そのとき、経済セオリーを主張する者はほとんどおらず、逆にセオリー無視の復興増税を推進した人たちのリスト http://www3.grips.ac.jp/~t-ito/j_fukkou2011_list.htm)は以下の通りだ。


[http://gendai.ismedia.jp/mwimgs/2/5/600/img_25cf709652c63fe37be515c8f87fefca350530.jpg:image]


一流と言われる学者たちでもこの有様なので、社会からの信頼を大いに落としただろう。

大震災直後の増税勢力は、1ヶ月後の4月14日、復興会議の五百旗頭真(いおきべまこと)議長の挨拶のなかに「増税」を盛り込ませている(2011年4月18日付け本コラム「あらためていう。「震災増税」で日本は二度死ぬ 本当の国民負担は増税ではない」(http://gendai.ismedia.jp/articles/-/2463)。

5年たった現在、そのことがどう評価されているのか。今年3月12日に放映されたNHKスペシャル『“26兆円” 復興はどこまで進んだか』は興味深かった(http://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20160312)。インタビューに応じた五百旗頭氏が、開口一番「復興増税がよかった」といったのだ。これにはかなり驚いた。


増税勢力は東日本大震災を「利用」した 〜あんな非常識なやり方を忘れてはいけない  | 高橋洋一「ニュースの深層」 | 現代ビジネス [講談社] 増税勢力は東日本大震災を「利用」した 〜あんな非常識なやり方を忘れてはいけない  | 高橋洋一「ニュースの深層」 | 現代ビジネス [講談社] 増税勢力は東日本大震災を「利用」した 〜あんな非常識なやり方を忘れてはいけない  | 高橋洋一「ニュースの深層」 | 現代ビジネス [講談社]



この時のことは僕も覚えています。東日本大震災が起こり、福島第一原発が大事故を起こして、2万人近い死者・行方不明者が出て、何十万もの人々が避難生活を余儀なくされ、東京でも電力や物資の不足に苦しんでいる時期に、事態に責任を持つ政治家や、一流と思われていた経済学者やメディアが、被災者そっちのけで増税を唱えだしたのですから。

これこそまさに「倫理的破綻」だと思います


この時、復興増税を唱えた勢力が、今もなお消費税増税固執しています。あれだけの大災害でも増税を唱えた人たちですから、日本経済や世界経済がどうなろうと増税を進めるのが当たり前という考えなのでしょう。前回の記事でも書きましたが、すでに前回の消費税増税が日本の消費を止めてしまったことは、はっきりしているというのに。
なぜ、彼らがここまで増税固執するのか、これまで色々考えてきましたし、このブログでもそのような考えを書いてきましたが、単なる個人的、組織的利害だけで本当にあれほどの固執が生まれるのかが、心に引っかかっていました。彼らが何らかの倫理的な正当性を持っていて、しかも実はそれが本当は間違っていると考えなければ、あのような間違いは説明できないでしょう。


先ほど述べた「節倹たれ」は、「市場の倫理」の中では間違いなく正しいものです。ただし「統治の倫理」に持ち込んではいけないものです。それを行ってしまったから、大災害の最中に「節倹」を実施して増税を行うことになってしまったのでしょう。
大災害の時は、「統治の倫理」の「気前よく施せ」が何よりも求められることでしょう。その正反対である「節倹たれ」を「統治の論理」と混ぜ合わせてしまったことが、あのような倫理的破綻の原因だと思います。
そのような間違いを犯し続けている勢力が、財務省を中心として、日本の政官財マスコミ、さらには経済学者まで広く及んでいます。現代の日本は、まさに「緊縮主義」という名の倫理的破綻に首まで浸かっているのです。人々を苦しめた日本の長期デフレ不況「失われた20年」もそのような倫理的破綻の結果として起こったものでしょう。


さらに恐ろしいのは、そのような「緊縮主義」という名の倫理的破綻に落ちいっているのは日本だけはないということです。ギリシャは長年経済危機に陥ってますが、昨年誕生した左派政権がきっかけで経済危機が深刻化した時、アメリカやIMFは債務減免を求めました。しかし、ドイツはそれに抵抗して、債務の減免を認めませんでした。*1このようなドイツの「緊縮主義」には、多くのEU加盟国も反発していますが、欧州最大の経済大国であるドイツには表立って逆らえません。
その後、欧州では難民の流入が深刻な問題になっていますが、その最大の入り口は他ならぬギリシャです。経済危機に陥っているギリシャには、難民の通過を抑える力はありません。本来ならば、難民問題の解決策として、ギリシャへの経済支援が再考されるべきなのですが、そのような話は全く出てこず、EUはトルコの民主化勢力弾圧を見逃して、トルコに難民問題への協力を求めています。
このような状況になっている原因も、ドイツの「緊縮主義」という名の倫理的破綻なのでしょう。おかげでEU内の移動の自由を保証したシェンゲン協定は有名無実となり、各国では極右勢力が台頭し、EUの理念も危機に陥っているのですが。


このように「緊縮」も「腐敗」と同様に、世界に大きな影響を及ぼす問題だと思います。そしてこの2つがどちらも「統治の倫理」と「市場の倫理」の混合による倫理的破綻として分析できることは、倫理体系の自覚的選択というジェイコブズが指摘した解決策が、非常に重要であることを示していると思います。
ただ、「腐敗」はこれまでも倫理的に大きな問題だと考えられていましたが、「緊縮」はそこまで大きな問題だとはみなされていませんでした。しかしこの2つが同じ原因を持つ問題であり、どちらも世界的に大きな問題を引き起こしていることを考えると、「緊縮」も「腐敗」と同じくらい、倫理的に大きな問題だと言えるのではないでしょうか。

3/21 補足

改めて文章を読み返してみて、説明不足だったところがあったので、ここで補足します。

まず、リーマンショックを招いたアメリカ金融業界の腐敗について、どのような倫理の混合が起こったのかについてです。本来、金融業界は「市場の倫理」に従うべきですが、そこに「統治の倫理」の「目的のためには欺け」が入り込んだのでしょう。具体的には「企業の利益のためには顧客を欺け」ということで、その「倫理」に基づいて「金融工学」がリスクを過小に見せることに悪用され(つまり、こんなことに「新奇・発明を取り入れよ」や「創意工夫の発揮」が使われて)、最終的には倫理の混合による破綻がリーマンショックという形で起こったのだと思います。

次に「節倹たれ」を「統治の倫理」と組み合わせた「緊縮主義」についてです。「節倹たれ」は「市場の倫理」においては「生産的目的に投資せよ」と結びつき、節約したお金は投資されるようになります。このような貯蓄の再投資が生産性向上につながり、長期的には経済を成長させる原動力となります。
しかし、「節倹たれ」が「統治の倫理」と結びついた場合、それだけでは再投資されることはありません。「統治の倫理」は占取(taking)に関する道徳ですから、国民から取った税金をひたすら貯め込むことになり、経済は停滞することになります。「財政再建」も財政赤字を減らすことですから、「国民から取った税金をひたすら貯め込む」のと同じ効果をもたらすでしょう。
ただ、実際には「統治の倫理」に「生産的目的に投資せよ」を組み合わせることもあります。「国有企業」がその典型例ですが、これは資本主義の中に部分的に社会主義を作るようなものなので、旧共産圏と同じような失敗をもたらすでしょう。実際にこれを行うと、「統治の倫理」の様々な項目に影響されて、結果的に「生産的目的」以外のところに投資されることになります。今、その悪影響が最も目立っているのは、やはり中国でしょう。あの国は非生産的な公共投資が大量に行われましたから。そのような投資は財政を悪化させるだけで、長期的な経済成長にはつながりません。

*1:もちろん、ギリシャ問題については、統一通貨ユーロによって各国が独自の金融政策を行えないことも大きな原因なのですが、それを和らげるためには、ユーロ圏内部で国境を超えた財政移転を行う必要があります。具体的にはこのような財政移転はドイツからギリシャへ行う必要があるのですが、ドイツはこれにも猛反対しています。