Baatarismの溜息通信

政治や経済を中心にいろんなことを場当たり的に論じるブログ。

宗教右派としての靖国神社

前回のエントリーのコメント欄で、トリルさんからこのようなページを紹介していただきました。


今更ながら、靖国問題がそもそも巷間言われているような問題なのかどうかを再検証しました - http://www.jimbo.tv/


このページによると、戦後、GHQ政教分離原則に基づき、靖国神社無宗教の公的追悼機関となるか一宗教法人となるかの選択を迫り、靖国神社は公共性のない一宗教法人となったが、その後も靖国がとても「民間の一宗教法人」とは呼べないような役割を演じているということです。ただし、靖国神社も戦略的にこのような行動を取ったわけでもなく、ただ生き残りのための行動しているうちにこうなってしまったようです。


この文章を読んで思ったのですが、靖国問題がここまで混迷している根本的な原因として、靖国神社が追悼機関としての公的な側面と、一宗教法人としての宗教的な側面を、なし崩し的に持ってしまっていることがあると思います。
靖国神社宗教法人となったのはGHQに半ば強いられてのことだったのでしょうが、宗教法人として国家から独立したことによって、靖国神社は戦後の日本国家が放棄した皇国史観国家神道大東亜戦争肯定論を受け継ぐことになりました。戦後60年が経つうちに、それらは言わば靖国神社の教義となったのだと思います。その教義では英霊は靖国神社の神であり、靖国神社の主張を信じる者は信者と言うことになります。宗教ですからその教義や儀式は理屈抜きに絶対です。また靖国神社から見れば、無宗教の公的追悼施設や分祀論は彼らの神を冒涜する異端や異教、非宗教法人化は宗教に対する迫害ということになります。僕は靖国神社の支持者と話していると非常にかたくなでイデオロギッシュな印象を受けることがあるのですが、宗教の信者だと考えるとそれも納得できます。
一方、靖国神社は公的な側面も持ちます。もちろん法的には靖国神社はただの一宗教法人ですが、ほとんどの日本人はそうはみなしません。靖国神社を支持する人は公的な側面を持つことを当然だと思うでしょう。また批判する人であっても公的な性格を無視できないから非難を続けるのであり、言わば逆説的に靖国神社の公的な側面を認めていると思います。さらに首相参拝を批判する韓国や中国ですら、首相参拝が公的な影響を持っていると考えているから批判するのでしょう。マスコミについても靖国に公的な性格があるから報道ネタにできるのでしょう。このエントリーを書いている私にしても同じ事です。こう考えると、靖国神社に公的な側面を与えているのは他ならぬ私たちです。だから靖国神社から公的な側面を奪うことはなかなかできないのだと思います。
前回取り上げた麻生私案は、このような靖国神社の公的な側面を認め、非宗教法人化、特殊法人化という形で制度を実態に合わせようとする試みだと思います。その意味でこの私案は靖国問題の本質を突いていると思います。しかし、同時に靖国神社には宗教としての側面もあります。宗教としての靖国神社は非宗教法人化を拒み、抵抗するでしょう。
靖国神社が求めているのは、公的な側面と宗教としての側面の両方を日本政府が認め、靖国神社が戦前のような地位に復帰することでしょう。しかしそれは憲法政教分離原則に抵触しますし、憲法を改正しようにも今更国民の支持は得られないでしょう。
公的な側面を奪うことも、宗教としての側面を奪うことも、両方を認めることもできない、そのため靖国問題は果てしなく混迷するのだと思います。
じゃあどうすれば良いかというと、結局時間が解決するのを待つしかないように思います。あと50年も経てば戦争を直接体験した世代やその子の世代はほとんど亡くなり、あの戦争は完全な歴史となるでしょう。その頃には靖国神社に公的な側面を与える人も少なくなり、宗教団体としての側面が強くなるでしょう。過去の一時期に日本を支配した思想を奉じる、宗教右派としての靖国神社、それが靖国神社の落ち着くところなのではないかと思います。