Baatarismの溜息通信

政治や経済を中心にいろんなことを場当たり的に論じるブログ。

なぜ日本人は自由競争も所得再分配も嫌うのか?

かつてこのブログで、日本人は市場における自由競争と政府によるセーフティネットの双方に対する信頼が低いという話を取り上げたことがありました。このような傾向は、主要国では日本だけに見られるようです。


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この話を取り上げていた経済学者の大竹文雄氏は、近刊の「競争と公平感」でも真っ先に(第一章第一節で)この問題を取り上げています。

競争と公平感―市場経済の本当のメリット (中公新書)

競争と公平感―市場経済の本当のメリット (中公新書)

この本の中で、大竹氏は日本に市場競争と政府による再分配政策の双方を嫌う特徴が生まれた原因として、お互いをよく知り監視してきた狭い社会でのみ助けあいをしてきたためではないかと推測しています。


さて、この推測内容のような日本社会の特徴について長年研究してきた人物に、社会心理学者の山岸俊男氏がいます。僕は山岸氏の著書を読んで、この問題の原因を考えるための手がかりになるのではないかと考えました。
今回は、山岸氏のこの著書の考え方に沿って、この問題を考えてみたいと思います。*1

心でっかちな日本人 ――集団主義文化という幻想 (ちくま文庫)

心でっかちな日本人 ――集団主義文化という幻想 (ちくま文庫)

一般に日本は集団主義的な文化を持つと言われますが、山岸氏によると日本人は個人よりも集団の利益を重んじる心を持っているわけではないそうです。実際に日本人とアメリカ人で実験を行うと、日本人が集団主義的な心を持つという結論は得られません。実際には日本人は相互監視と相互制裁のしくみの元では集団主義的な行動を取るが、そのようなしくみがなくなると個人主義的な行動を取る(いわゆる「旅の恥はかき捨て」)傾向があるのですが、「帰属の基本的エラー」(人間は他人の行動を見ると、周囲のしがらみや圧力ではなく、その人がそうしたいからしているのだと思ってしまう傾向)のため、日本人は集団主義的な心をみんな持っていると思ってしまうのだそうです。
山崎氏はこのような集団主義的な文化を、「内集団ひいき」のナッシュ均衡(上の本の中では相補均衡という言葉を使っています)として考えています。「内集団ひいき」というのは「自分と同じ集団の人間を、他の集団の人間より優遇する行動」のことであり、ナッシュ均衡ですから誰にとってもそれ以外の行動を取ると、より不利になってしまいます。具体的には、誰かが他の集団の人間も別け隔てなく接すると、同じ集団の仲間からは冷たい人間だと思われ、冷遇されたり村八分にされたりしてしまうでしょう。だから、このような「内集団ひいき」が好ましくないと思っていても、自分も「内集団ひいき」的に行動せざるを得なくなるでしょう。そしてこのような社会では、やがて人々は「内集団ひいき」的行動を導くような考え方や好みを身につけるようになり、さらに「内集団ひいき」的行動が有利となることで、「内集団ひいき」的な行動や文化が維持されるようになるでしょう。
ただこのような集団主義では、個人は集団と心理的に一体化しているのではなく、集団の中で相互依存関係を結ばなければ生活できないから集団主義な行動を取っています。


ここまでは山岸氏の考え方なのですが、ここからはこの考え方を最初の問題に応用してみます。


さて、このような「内集団ひいき」的な社会の中にいる人にとって、市場における自由競争はどのように映るでしょうか?自由競争の環境では、「内集団ひいき」的な行動を取っていると、外集団の人間を内集団と同じように扱って得られる利益を失うこと(機会費用)になり、「内集団ひいき」のコストが大きくなります。従って、自由競争は「内集団ひいき」な集団に依存している人にとっては、自らの生活基盤を脅かすことになります。そのような自由競争をもたらす市場に対する信頼は低くなるでしょう。そして自由競争に対する規制は好ましく思うでしょう。
一方、政府によるセーフティネット所得再分配)についてはどうでしょうか?所得再分配では税金を徴収して得たお金を低所得者層に厚く配分しますが、この所得再分配は特定の集団内部で行われるわけではなく、さまざまな集団やどの集団にも属すことができない人も含んだ、国家的な規模で行われます。従って、所得再分配は「他の集団の人間も別け隔てなく接する」という性質を持ちます。「内集団ひいき」な集団に依存し、そのような行動や文化を身につけている人にとって、このような性質は好ましくないでしょう。だから所得再分配を行う政府に対する信頼も低くなるでしょう。
実際、日本では政府による財政支出は「バラマキ」という言葉で激しい批判の対象になります。特定の業界や地方が潤う公共事業だけではなく、麻生政権の定額給付金や、鳩山政権の子ども手当など、国民に幅広く支給される財政支出ですら、激しく批判されました。この現象は一見「小さな政府」を重視する保守的な(あるいは「新自由主義」的な)動きのように思えますが、このように考えると「内集団ひいき」的な考え方に基づく動き(端的に言えば「よそ者に俺の税金をばらまくな!」)とみなせます。
また、「事業仕分け」のような「ムダを省く」政策に対する国民の支持が高いのも、「内集団ひいき」的な考え方の持ち主にとっては、「よそ者に俺の税金を回さない」政策と考えられているからでしょう。


アメリカのような「内集団ひいき」的な文化がなく、集団の内外で別け隔てなく接する社会においては、ここまで述べたような問題はないでしょう。だから市場による自由競争と政府による所得再分配の双方を嫌うことはなく、少なくともどちらかは好むでしょう。一般的に保守派は前者、リベラル派は後者を好み、その違いが政治的な対立となっています。この図式をそのまま日本に持ってきて、市場による自由競争と政府による所得再分配は対立するものだと考えてしまうと、日本では両方とも嫌われているという傾向は理解出来ないでしょう。
しかし、市場による自由競争も政府による所得再分配も、集団の内外で別け隔てなく接するという点では共通しています。だから、市場競争と所得再分配は、資本主義社会の「車の両輪」として機能するのでしょう。「内集団ひいき」的な社会がその点を嫌うと考えれば、日本の状況も理解できるのではないでしょうか?

*1:経済学に詳しい人が山岸氏の著書を読むと、随所に経済学的な考え方が取り入れられているのがわかるでしょう。だから、経済の問題に心理学的な視点を取り入れる場合、山岸氏の考え方は取り入れやすいと思います。