Baatarismの溜息通信

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テレビ局は報道の自由を守るために周波数オークションを受け入れるべき

高市総務相が「政治的な公平性を欠く」放送に対して、放送法4条違反を理由に電波停止を命じる可能性に言及したことで、言論の自由報道の自由が脅かされるのではないかと懸念の声が出ています。
この問題を巡って様々な意見が出ましたが、僕が一番納得できたのは国際政治学者の三浦瑠麗氏の意見でした。

結論から言うと、言論の不自由さに対する懸念には一定の根拠があると思っています。しかし、その原因については、政権側の抑圧や、日本社会の保守化といった単純なものではないと思っています。足元で高まっている言論の不自由さは、日本社会の政治化という変化を反映した症状であると考えるからです。


日本的な権力分立の仕組み

欧米社会と比較した際に日本社会が際立っているのは、それが並立する「ムラ社会」のあつまりであるという点です。ムラとは会社であったり、業界であったり、地域であったりします。ムラ同士が交わることは少なく、個々人にとって「ムラ社会」の存在は圧倒的です。国民や市民という概念は、わかりやすいストーリーとしては存在しても、実際の社会的な単位としてはそれほど力を持っていません。個々のムラが縦割り的に存在し、それぞれの縦割りの中で秩序を保つための伝統と統治原理を育んでいるのです。

実は、この縦割り構造が日本の言論の自由においても重要な役割を果たして来ました。自民党に代表される日本政治の現場は昔から保守主義であり、権威主義でした。責任ある立場にいたことのあるジャーナリストの方に聞けば皆そう答えるでしょう。メディアをコントロールしたがるのは政治の本能のようなものです。その本質は何も変わっていません。

メディア業界が独自の「ムラ」として自律性を持っている限りにおいて、政治の介入を組織としてはねのけることができたに過ぎません。そして、その自律性はメディアの中で圧倒的な存在であったリベラルな価値観によって支えられていました。

政治と官僚の関係にも同様の構造が存在します。戦後日本のリベラリズムの原点にはGHQが主導した改革がありますが、霞が関のエリート達はその政策の忠実な承継者でした。政治的な介入を排除し、リベラルな法体系の下で漸進主義的に政策を実行していったのです。生存権を原理とした社会福祉の増進も、男女同権を原理とした女性の地位向上も、時間はかかったけれど戦後一貫して改善してきました。官僚機構というものは、軌道修正は苦手である代わりに、一定の方向に向かって少しずつ成果を出すことには向いているのです。

そんな中、近年変化したのは日本社会において政治化される領域です。日本は、過去20年の間の諸改革を通じて、一貫して政治的なリーダーシップを強化する方向に舵をきってきました。省庁を統合し、内閣府内閣官房の権限を強化したことで首相の権限は大幅に強化されました。小選挙区制を導入したことで、政党内で資金や公認権を握る執行部への権力集中が進みました。現在の首相は、かつてとは比較できないほど大きな力をふるうことができるようになったのです。

それは、国民が求めた変化でした。冷戦の終結バブル崩壊を経た90年代の日本は変化に対して極度に臆病になっていました。個別の「ムラ」の統治原理に委ねている限り、変わることは不可能と思われたのです。そこで採用されたのが、政治が関与する領域を拡大するという手段でした。独立性の高い社会が割拠する状態から、政治の大きな物語に基づく横断的な変化へと一歩踏み出したのです。

政と官との関係において、それは「政治主導」という物語でした。しかも、政治主導の内実は世論主導であり、メディア主導であることも多かったのです。政治とメディアとの関係では、政権に対する距離感でメディアがより鮮明に色分けされるようになりました。当然、政権に批判的なメディアに対しては政治の側からの圧力が増大します。それに対するメディア「ムラ」の抵抗力は弱まっていました。

政治の拡大によって物事が前に進んできたことも事実です。薬害との闘いも、無駄な公共事業の削減も、左派的なイデオロギーに支えられた外交政策の転換も、既得権益を排除するための制度作りも、そうして初めて可能になったのでした。その代償が、霞が関やメディアへの政治の介入を許したことでした。


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このように、メディア業界が日本的な独自の「ムラ社会」であり、その自律性を支えていたのが「ムラ社会」とは本来相容れないはずのリベラルな価値観であったというところに、日本のメディア業界の矛盾があるのでしょう。
しかし、国民の要求によって「ムラ社会」の力が弱まり、それに代わって「政治化される領域」が広がった結果、メディアへの政治の介入が起こってしまいました。メディアは報道の自由というリベラルな価値観を振りかざしてそれに対抗していますが、メディアの自律性を支えていた「ムラ社会」が弱体化しているため、効果的な抵抗ができないのでしょう。


ただ、三浦氏は「権力は「政治的中立」を判断できない」ため、政府による民主的統制をメディアに対して行うべきではなく、マーケットの中での競争によって不人気な番組やテレビ局を淘汰させることで、民意を報道に反映させるべきだと論じています。

権力は「政治的中立」を判断できない

話を言論の自由に戻しましょう。高市総務相の発言の問題の本質は、権力は「政治的中立」を判断できないという点にあります。百歩譲って裁判所が「中立性」の解釈者たりえたとしても、行政が判断権者である時点でその判断こそが中立性を欠いているのです。大臣は原理的に不可能なことを仰っている。それは、厳密な意味では放送法の規定自体が間違っているということです。日本の行政は「間違い」を改められないという掟をもっていますから、長らくこれは倫理規定であると解釈してごまかしてきたわけです。

そこに、法の原理に対する表層的な理解をもった政治家が現れ、法律を字句どおりに解釈することで影響力を発揮しようとした、というのが一連の発言の本質です。しかし、高市総務相自民党の政治家として特異な考え方を持っているとは思いません。保守政権の中で頭角を現すための、忠誠心競争に気を取られている傾向はあるのかもしれませんが。

そこにはあるのは、法の原理よりも統治者としての倫理を重視する発想です。現に、高市大臣は「私の時に(電波停止を)するとは思わないが、実際に使われるか使われないかは、その時の大臣が判断する」と言っています。徳のある倫理的な指導者として振る舞う「お上」による「さじ加減」に基づく人治・徳治の発想です。

もちろん、自民党の支持者の中にも、国民一般にも、そのような発想を受け入れる土壌が存在します。民主主義という制度が、政策の方向付けを国民の集合的な判断に委ねている以上、その判断が原則によって行われるのか、倫理によって行われるのかを問うことはできません。日本には中庸の道徳の伝統もあれば、喧嘩両成敗の知的DNAもあります。メディアが、とってつけたように政治問題について賛成と反対の立場を紹介するのは、サラリーマン的な事なかれ主義でもあるけれど、日本的な倫理的発想にも沿っているのです。


政治主導に不可欠なもの

したがって主権者である国民がどのような判断軸によって政治的意思を表明するかについて規定することは難しい。しかし、政治主導の暴走を避けつつ、適切に機能させるための仕組み作りを担うのはプロの責任です。

誤解のないように申し上げますが、私は、政治が介入する領域が拡大することそのものに反対ではありません。今日の世界にあって、個々の「ムラ社会」の掟に従って社会を運営することはできないからです。したがって、中選挙区制に戻すべきという懐古主義には与しません。また、知識人や専門家の意見がより尊重される「知性主義」を万能視する立場にも反対です。知性を尊重しない社会は不幸ではあるけれど、知性を主張する側に知性が備わっているのかという観点も重要だからです。

しかし同時に、私企業や、公共放送に対してすら、マーケットの中での競争(=視聴率やコアなファン層形成をめぐる)を超えて、民主的統制を、政府や国会を通じてやるべきだとは思っていません。なぜなら、大衆の集合的な意思をすべてに押し付ければ多様性はなくなり、尖った番組も作れなくなるし、カレーライスに激辛もスパイス風味もなくなり、すべてがマイルドなお子ちゃま味になってしまうようなものだからです。不人気な番組やTV局は競争の中で淘汰されるべきであって、それが正しい民意の反映のさせ方なのです。


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この意見を読んで僕が思ったのは、それならばテレビ局は電波帯域の周波数オークションを受け入れるべきではないかということです。

今の放送用電波帯域は、総務省の裁量によってテレビ局に割り当てられています。しかし、政府や官僚の裁量によって割り当てられた帯域は、裁量によって取り上げられる可能性を否定できません。高市総務相の発言はその可能性をほのめかしたものであり、それだけでもテレビ局に対する脅しとしての効果を持ってしまいます。だから、これだけ問題視されているわけです。だから、この問題の本当の原因は裁量による電波帯域の割り当てそのものでしょう。


この総務省による裁量を排除するためには、電波帯域を周波数オークション(公開入札)によって分配するのが良い方法です。テレビ局は公開入札によって、電波帯域の利用権をを期限付きで「買い取り」ます。その結果、電波帯域利用権は財産としての価値を持ちますから、もし政府が裁量によって「停波=電波帯域利用権の取り上げ」をするなら、それは財産権の侵害であり、テレビ局は巨額の損害賠償訴訟を起こすことができるでしょう。従って、政府はそのような訴訟を起こされることを恐れて、停波の可能性を口にすることも難しくなるでしょう。

もちろん、周波数オークションを導入すると、テレビ局は多額の電波使用料を政府に支払わなければなりません。それはテレビ局の経営悪化要因ですが、逆にそのことがテレビ局に利益を上げる必要性を認識させ、より視聴者の支持を得られる番組作りを促進することになるでしょう。また、コストばかりかかって人気がない番組を作る余裕はなくなりますから、テレビ局の経営も効率化されるでしょう。それができないテレビ局は、電波オークションで放送用の帯域を落札できなくなり、倒産や吸収合併を余儀なくされるでしょう。あるいはネット企業など異業種企業の傘下に入ることで資金を確保して、帯域を落札することも考えられます。このようなことを通じて、メディア業界はマーケットにおける競争に晒され、政府を通さずに民意が反映されるようになります。


ここで懸念されるのは、弱体化したとはいえ「ムラ社会」であるメディア業界が、「ヤミ談合」によって入札者や入札価格を操作して、電波使用料を抑えようとする可能性です。ただそれを行うと、停波の際に要求できる損害賠償額も少なくなりますから、政府は訴訟を恐れることなく停波の可能性をちらつかせ、メディアへの介入を強めるでしょう。従って、そのような「ヤミ談合」はメディア自身の首を絞める結果となります。


これまで日本の様々な領域にあった「ムラ社会」が弱体化し、「政治化される領域」が広がっていくのは、国民の要求によるものですから、この流れは変わらないでしょう。ただ、それによってメディアへの政治介入が強まるのは、悪い副作用だと思います。それを避けるためには、メディア業界がマーケットによる競争を受け入れ、政府ではなくマーケットによって民意が反映される報道機関になることが必要でしょう。周波数オークションはそのために不可欠な道具です。だから、テレビ局が報道の自由を守りたいのならば、周波数オークションを受け入れなければならないと思います。

メディア業界が掲げているリベラルな価値観は間違っていません。ただ、その価値観で閉鎖的な「ムラ社会」を支えてきたことに問題があったのでしょう。すでに「ムラ社会」の維持が困難になっているのですから、報道の自由を守りたいのならば、メディア業界はマーケットに身を委ねて、その結果を受け入れるべきです。周波数オークションの受け入れは、メディア業界が本当に「ムラ社会」を抜け出して、報道の自由を守る気があるのかどうかを判断する、リトマス試験紙となるのではないでしょうか。