Baatarismの溜息通信

政治や経済を中心にいろんなことを場当たり的に論じるブログ。

貸し渋りと貸し過ぎを分けるもの

前回のエントリーでは、予想外に多くのコメントやトラックバック、ブックマークをいただきました。ありがとうございます。
それらの中で、僕が最もショックを受けたのが、id:himaginaryさんのトラックバックでした。

mojimoji氏と「論争」しているBaatarism氏は、自ブログ、ならびにmojimoji氏ブログのコメント欄で、預金の受け入れ拒否と、それに伴う信用創造の阻害を心配している。だが、逆鞘が生じた金融機関は、むしろ、支出面よりも収入面で何とかしようとしてリスクの高い投資に走るのが古今東西の常である。そのあたりの話は、以前、クルーグマンが日本の不況脱出法を論じた有名な論文で説明している。山形氏の邦訳から該当部分を抜き出すと

でも銀行取り付け騒ぎがないなら、債務超過の可能性もあるような銀行はどう振る舞うと期待されるだろうか。貸し渋り、だろうか? 教科書的な答え(ちなみにこの答えは、アジアのエマージング経済の問題をめぐる議論で中心的な役割を果たしている――McKinnon and Pill (1997), Krugman(1998), Corsetti et al (1998) を参照) は、その正反対だ。債務超過、またはそれに近い銀行が、政府補償のおかげで預金を手放さずにいられるなら、それはリスクの高いプロジェクトに貸しすぎるインセンティブを作ってしまう。要するに「勝ったらオレの勝ち、負けたらツケは納税者」のゲームを遊ぶことになるわけだ。バブル以降の日本の金融機関はまさに、一斉取り締まりが始まる直前のアメリカのthriftと同じ状況にあると見ればいい。かれらの立場のモラルハザードが、貸し渋りではなく貸しすぎ傾向を作り出すわけだ。



80年代に預金金利の上昇に苦しんだS&Lは、そうしたリスクの高い借り手への過剰融資だけでなく、ジャンクボンドへの投資なども行なって収益を高めようとした。今回のサブプライムローン問題との類似性が取り沙汰される所以である。もし今、日本の銀行が収益面で逆鞘ないしそれに近い状況に追い込まれたら、やはり同様の動きをするだろう。


つまり、左派系の方々が良かれと思って推奨する方策が、期せずして、日本の金融機関はより収益性の高いビジネスに乗り出すべき、という池田氏をはじめとする市場主義的な主張の実現につながってしまうわけだ。その皮肉な状況が面白いと言えば面白い。

預金金利引き上げと銀行の行動 - himaginaryの日記



正直言って、政府によって預金金利を引き上げさせられた銀行が、よりリスクの高いプロジェクトに融資して損を取り返そうというインセンティブについては見落としていました。
しかも、himaginaryさんが論拠として出してきたのが、リフレ政策にとって原点とも言えるポール・クルーグマンの論文 "IT’S BAAACK! JAPAN’S SLUMP AND THE RETURN OF THE LIQUIDITY TRAP" *1 *2 ではないですか。
この論文は僕ももちろん読んでいたのですが、そこにこんな大事な話があったとは…さすがにこれはへこみますね。orz


しかも、himaginaryさんはこの記事のコメントで、こんな事を指摘しています。

Baatarism 2008/10/04 16:28
なるほど、預金拒否や貸し渋りのような損を切り詰める方法ばかりではなく、リスクを取って収益を高める方法もあるわけですね。そっちは見落としていました。
貸し渋りというのは単に債務超過なだけではなく、流動性が不足するような事態になって初めて生じるんでしょうか。
それにしても、左派・リベラルの人が考えた政策が、彼らが批判する「市場原理主義」を実現してしまうという話は皮肉ですねえ。


himaginary 2008/10/05 01:52
Baatarismさん、コメントありがとうございます。
貸し渋りについてですが、再び山形氏訳クルーグマン論文から引用しますと、日本でも米国でも「貸し渋りが生じたのは銀行が財務上の問題を抱えだしたときじゃない。政府がそれについて何か手を打ちそうに思えてきたときだった。」とのことです。流動性の不足はその貸し渋りの結果として生じますが、通常の場合ならば金融政策を緩めればそれをカバーできる、しかし、流動性の罠に嵌っているとそれがままならない、というのがこの論文の3.3節の分析です。


預金金利引き上げと銀行の行動 - himaginaryの日記



このことについて論じられているのは、この部分ですね。

でも、貸し出し過剰の理屈と、最近の貸し渋りの話とは整合性がないのでは? すぐに出てくる回答としては、貸し渋りがの話はごく最近の現象だということだ。新聞の記事検索をいい加減にかけてみると、1997 年後半以前には、日本で貸し渋りが話題になったのはほんの数件しかない。1997 年の晩秋になるまで、多くの評論家は貸し渋りなんて実在するのか、少なくともそれが深刻なものか疑問視していた。資金不足が広く受け入れられた現象になったのは、やっと1998 年初期になってからだ。
1997 年末に信用制約が登場した理由は、新聞報道を見てもかなりはっきりしている。いちばん直接的にそれを強制したのは、1997 に発表になった、1998 年4 月から施行される銀行の新しい財務健全性基準だった。この基準を満たすために、銀行は大きな資本の裏付けを必要とするような貸し付けを削減しだしたわけだ。要するに銀行の財務問題が総需要の足を引っ張るようになったのは、政府がその問題に取り組もうとして中途半端な試みを始めたからだ。
もっと一般化していえば、1997 年末以来、いずれ政府が銀行をすべてではないにしても一部差し押さえるという見通しが生じたために、それがギリギリのところにいる銀行たちに、バランスシートを飾り立ててなんとか生き延びられるようにしようという新しいインセンティブを作り出した、という議論ができる。この試みに成功した銀行への見返りは、おおざっぱにいれば、生き残ってまた不良貸し付けができるようになる、ということだ。あるいはちょっと別の言い方をすると、少なくとも一時的に政府の手を逃れて、政府の預金保護が暗黙に意味しているput オプションの価値を実現したい、というわけだ。
これはアメリカの経済学者にはおなじみのはずだ。同じ疾患の弱いものが1990-92 に発生している。セービング&ローンの精算の規模がはっきりしてきて、さらに次は商業銀行だという議論が広まった時期だ。日本の場合と同じように、貸し渋りが生じたのは銀行が財務上の問題を抱えだしたときじゃない。政府がそれについて何か手を打ちそうに思えてきたときだった。

復活だぁっ! 日本の不況と流動性トラップの逆襲 It’s Baaack! Japan’s Slump and the Return of the Liquidity Trap



となると、枝野氏が言ってるように政府が行政指導で預金金利を引き上げた場合、(例えば1998年頃の日本や最近の欧米のように)政府がさらに銀行の融資状況を監視・規制するのであれば、銀行は融資や預金を減少させる行動を取り、そのような監視・規制がないのであれば、(バブル期の日本やサブプライム問題以前のアメリカのように)himaginaryさんが指摘したように銀行はリスクの高い融資や投資を活発化させるということになりますね。
おそらく枝野氏はマネーサプライを減少させて日本を不況に陥らせるつもりも、逆にマネーゲームを煽って日本を「市場原理主義」にするつもりもないのでしょうが、経済学的に考えるとこのどちらかになってしまい、枝野氏が予想だにしない結果を招いてしまうというのは皮肉ですね。
前回の僕のエントリーにSMAP/Vさんがコメントしてくれた話によると、枝野氏は「いままで経済のプロが言うとおりにやってきて失敗した」と言ってるようですが、経済の専門的な知識なしに政策を行っても、やはり失敗は避けられないようです。