Baatarismの溜息通信

政治や経済を中心にいろんなことを場当たり的に論じるブログ。

続・なぜTPP反対論が盛り上がるのか

前回のエントリーには非常に多くのご意見をいただき、ありがとうございました。長い間ブログをやっていますが、ここまでコメントが多かったのは初めてです。
さすがにここまで多いと一つ一つに返事をする余裕はないのですが、通して読んでみて僕が思ったことを書いてみたいと思います。皆さんのコメントに対する直接の返答にはなっていないと思いますが、その点はご容赦下さい。


まず、リカードの比較生産費説についてですが、リカードは19世紀初めに活躍した経済学者です。
前回のエントリーやコメント欄で問題となった労働者移転の問題ですが、これは現代の経済学で言えば不完全雇用の問題になると思います。不完全雇用というのは、仕事を選ばずに働く意志があるにも関わらず、仕事につけず失業してしまう人が存在する状態を指した言葉です。これに対して、仕事を選ばなければ何らかの職が得られる状況を完全雇用と言います。リカードの比較生産費説では、比較劣位な産業から比較優位な産業へ労働力が移転できることが前提となっているので、これは完全雇用の状態を仮定していると言えます。
しかし、経済学の歴史を見ると、不完全雇用の問題が大きくなったのは20世紀に入ってから、その中でも特に1930年代の世界大恐慌の時代になってからであり、リカードの時代の約100年後のことでした。リカードは不完全雇用の問題があまり意識されていなかった時代の経済学者ですから、彼が考えた理論がスムーズな労働者移転を前提としていてもおかしくはないでしょう。
ただ、大恐慌以降の経済学では不完全雇用最大の問題の一つとなっていますから、現代の経済にリカードの比較生産費説を適用する時は、労働者移転の問題を考慮する必要があると思います。


また、需要不足/デフレの時にTPP参加のような供給側を効率化する政策を取るべきではないという意見もありました。これについては、僕は需要不足/デフレについては、金融政策や財政政策で対処すべきであり、TPPはそれとは別に将来的な生産性向上策として行うべきだと考えています。*1
この点については、片岡剛士氏が「政策割り当てに関するティンバーゲンの定理」という考え方を使って説明しています。簡単に言えば、別々の課題には、それぞれの課題に対応した別の政策を割り当てるべきという考え方で、この場合は、短期的な需要不足/デフレについては金融政策や財政政策、長期的な経済成長のためには生産性の向上策(その中にTPPが目指す貿易自由化や国際的な規制緩和も含まれます)を割り当てるという考え方です。

■必要な「政策割り当て」の発想


TPPの貿易自由化の側面についてその効果をまとめると、関税や非関税障壁といった、経済主体の効率的な行動に歪みをもたらしている要因を排除することで、経済主体のさらなる効率的な行動を促し、それによって生産性を高めていくこと、といえるでしょう。


TPPを含む貿易自由化とデフレや円高といったトピックを混同している議論が見られますが、両者は政策目的という視点で考えれば別のものです。


TPPを含む貿易自由化は、資源配分の効率性を高めることで生産性を高めることが政策の目的です。デフレ対策の目的は、デフレを脱し、一般物価を安定的なインフレに高め、総需要を刺激することです。そしてデフレ対策は円高を是正する効果ももっています。ここから明らかなのは貿易自由化を進めることで、デフレから脱却することや円高を是正する可能性は低いということです。デフレ対策を進めることで、円高を是正することによる輸出促進効果はあるとはいえ、デフレは貿易自由化で期待される相対価格の歪み是正とは異なる問題です。


政策割り当てに関するティンバーゲンの定理(生産性向上にはTPP、デフレ・円高には金融緩和策というかたちで政策目的に応じた政策手段を講じるというものです)を指摘するまでもなく、影響を与える経路や対象は異なるわけですから、政策にともなう時間的なラグを考慮の上で両方進めることが必要でしょう。


デフレ対策すら行われない(うまくいかない)のだから、貿易自由化に資する政策を行っても意味はないという議論はその通りかもしれません。しかしながら、日本が抱える現状は、経済停滞が長期化することで潜在的な成長力も低下しつつあることにあり、かつ成長力を高める芽がどんどん失われてきている状況とも言えるのではないでしょうか。


デフレ対策をやらないのであれば短期的には何をやっても意味はないというのは、貿易自由化の効果が大きくはなく、かつ長期に渡りじわじわと効いていくと考えられることからも正しいでしょう。しかし各種政策の効果のなかで貿易自由化は数少ない、効果を数値的かつ明瞭に明らかにできる政策のひとつでもあるといえます。デフレから脱却できなければ何を行っても無駄というのではなく、デフレ脱却と貿易自由化の相乗効果から緩やかなインフレをともないながら成長力(生産性)の強化にもコミットすることが、むしろ必要ではないでしょうか。


SYNODOS JOURNAL : TPPを考える 片岡剛士 SYNODOS JOURNAL : TPPを考える 片岡剛士 SYNODOS JOURNAL : TPPを考える 片岡剛士


コメント欄には、TPPは貿易や農業だけの問題ではないという意見も数多く寄せられました。ざっと思いつくだけでも、医療、保険、食品安全、公共事業、ISDS条項、労働規制、労働者流入、環境規制といった問題が指摘されています。
これについても、先ほどの片岡剛士氏がQ&A形式で詳しい説明をしています。彼は私と同じくTPP賛成派なので、賛成派の立場に基づく説明になっていますが、政府の説明よりは筋が通った内容になっていると思います。

Q. TPPに参加することで、わが国の社会保障制度が犯されるのか?


A. TPPに参加することでわが国の社会保障制度が犯されることになるという可能性はかなり低いと考えられます。まず理由として、WTOやTPP交渉参加国が過去締結したFTAにおいても、一国の社会保障制度に踏み込んだ事例はありません。そして経済統合の度合いがTPPよりも高いEUでも社会保障制度を共通化するという試みはありません。各国の専管事項です。これらの点からも反対論として指摘される国民皆保険制度が犯されるのではないかという懸念は、ほぼありえないと考えられます。


Q. TPPに参加することで、混合診療の全面解禁や公的医療保険の安全性低下、株式会社の医療機関経営の参入を通じた患者の不利益拡大、医師不足の拡大・地域医療の崩壊といった現象が生じるのか?


A. 医療・保険についてTPPで話題になるのは医療・保険サービス業の自由化です。サービス協定で約束されるのは、一国の国内規制を前提とした最恵国待遇や内外無差別原則にもとづく約束です。よって自由化の約束により日本の医療制度が変更されるとは考えにくいといえるでしょう。

医療制度の国内規制そのものを対象にするのであれば、TPPに医療章が別途設けられることになるでしょう。ただし現状の情報からはそうはなっていません。もちろん、TPPを契機として、(条項として明記されていないにも関わらず)指摘されている変化が生じる可能性はあります。その場合はわが国全体にとり不利益である規制緩和には反対することが必要ですが、だからといって懸念があるからTPPに反対というのは違うのではないでしょうか。


Q. TPPに参加することで、遺伝子組み換え食品につき、日本の食品安全規制が米国基準に引き下げられるのか?


A. SPS協定、TBT・ガット協定にもとづいて遺伝子組み換え食品の調和が求められているのは、安全性が確認されていない遺伝子組み換え食品を流通させてもよいのかという点についてではなく、(安全性が確認されていない遺伝子組み換え食品の流通は禁止することを前提に)遺伝子組み換え食品の表示の義務づけをどの段階までの食品にするのかという点についてです。

米国は遺伝子組み換え食品の表示をするのはコストがかかるという立場ですが、日本は遺伝子組み換え食品に遺伝子組み換え大豆等のDNAが残存している場合には表記をするというもの、EUはDNAが残存していないしょうゆ等の製品ついても表記すべきというものです。日本側の主張については、APECでも米国の主張は退けられており、TPP交渉参加国の豪州・NZも反対しています。少なくともTPPに参加することで即、遺伝子組み換え食品について日本の食品安全規制が米国基準に引き下げられることはないと言えます。


Q. TPPに参加することで、政府調達につき、日本の公共事業が海外事業者に席巻されるのか?


A. 現状、TPP参加国と比較したわが国の政府調達の自由化度合いは進んでいます。たとえばアメリカは米韓FTAで地方政府機関を政府調達の範囲から除外していますが、日本はWTOが定める政府調達協定(GPA)のなかで、米国以上の開放をすでに実現しています。TPPによって政府調達市場の自由化が促進されるのは、わが国ではなく、米国をはじめとするTPP交渉国です。加えてバイアメリカン条項の存在から一方的に日本が不利益を被るという指摘もありますが、これは先の多国間協定、さらに協定締結国は等しく同じ条件の自由化にコミットするという点からも誤りです。


Q. TPPに参加することで、わが国政府が外国企業から訴えられるケースが多くなるのか?


A. ISDS条項という紛争処理条項にもとづいて、TPP締結によってわが国政府が外国企業から訴えられるというケースが多くなるという批判が展開されることがあります。

まずすでにわが国は25を超える投資協定を結んでいますが、わが国が訴えられた例は過去にありません。TPPを締結することで過去にはない状況が生じるというのは、可能性としてはありうるものの批判としては弱いでしょう。TPP、とくに米国企業が入ることでわが国が訴えられるという指摘と、企業に対する具体的な措置が恣意的・不透明もしくは差別的であったために国が訴えられたという事例との差を考慮すべきではないでしょうか。

TPPの議論においては、ISDS条項を入れることにつき、豪州は反対の姿勢を示しているといわれています。協定ですので、日本企業が訴えられる可能性のみならず、他国企業も訴えられる可能性があるのですが、ISDSにもとづく懸念は自国のデメリットを過度に強調しているようにも見受けられます。


Q. TPPに参加することで、労働基準の緩和(ダウングレード)が生じるのか?


A. 実態は寧ろ逆で、ソーシャルダンピング(低賃金・児童労働といった劣悪な労働環境を利用して企業がコスト削減を行い競争力を高める事)の懸念を米国は表明しています。TPPに労働・環境章が入っているのは、労働の規制緩和ではなく、途上国の労働規制強化を求めていることに留意すべきです。

同様の批判として、単純労働者の流入が進むという議論ありますが、過去単純労働者の国際的な移動に反対してきたのは米国です。医師資格の相互承認についても途上国まで参加するTPPで、資格統一を図ろうという議論が出る可能性はかぎりなく低いでしょう。仮に医師資格が統一されるとして、米国医師が日本で働きたいと考える可能性も低いのではないでしょうか。というのは、わが国の労働環境は米国と比較してよいとはいえないと考えられるためです。


Q. TPPに参加することで、わが国の環境基準は低下するのか?


A. 環境についてもわが国はすでにTPP協定参加国と比較して高いレベルの環境規制にコミットしており、米国が求めているのは、環境規制の緩和ではなく規制強化であることを念頭におくべきでしょう。なお環境章そのものについて途上国は反対しているという情報もあります。


SYNODOS JOURNAL : TPPを考える 片岡剛士 SYNODOS JOURNAL : TPPを考える 片岡剛士 SYNODOS JOURNAL : TPPを考える 片岡剛士



ただ、これらの片岡氏の説明を見ると「危険なことが起こる可能性が低いから大丈夫だ」という結論が多いように思います。それに対してTPP反対派の方の意見を見ていると「危険な可能性があるのならやめよう」という考え方に基づいているように思うのです。

これに似た考え方をどこかで聞いたことがあるなと思って、しばらく考えてみたところ、思い至ったのが原発事故後の放射能の問題でした。環境や食品に含まれる放射能放射線放射性物質)の基準は、あるレベル以下の数値ならば健康に問題を与える可能性は低いという考え方で決められていますが、これに対してわずかでも放射能があるのは問題だという考え方をする人もいます。わずかでも放射性物質が含まれている可能性がある食品は避けるという人もいますし、できるだけ原発から離れた場所に逃げようとして、沖縄まで行った人もいます。*2
このように、わずかな悪影響も許容できない考え方を差してゼロリスク信仰という言葉がありますが、TPP反対論についても、僕は同じようなゼロリスク信仰を感じるのです。


放射能の問題についてゼロリスク信仰が生まれた理由は、政府や専門家の出す情報に対する不信でしょう。それに加えて、ネットなどでも様々な情報が流されて、どれが正しいのか分からない状況になってしまったので、元々放射能の問題に敏感だった人が、自分が一番納得できる情報を選んだ結果が、ゼロリスク信仰になったと思います。
政府や専門家の出す情報に対する不信や、ネットなどでも様々な情報が流されてどれが正しいのか分からない状況というのは、TPPでも同じだと思います。だからやはり自分が一番納得できる情報を選んだ結果、同じようなゼロリスク信仰になる人はいるでしょう。


僕はTPPは賛成ですが、デフレや増税の問題では徹底的に政府を批判しているので、政府への不信は非常に強いです。僕はたまたま以前から経済学を学んでいて、片岡氏のような経済学の専門家に対する信頼があったので、TPPでは経済学的な考え方に基づいたそのような意見を信頼しています。ただ、最近になってTPPの話を聞いた人が、政府や専門家に不信を抱いてしまうのも理解できます。


しかし、残念ながら、この世の中であらゆるリスクを避けることはできません。原発から遠く離れた場所に移住することが、仕事や生活の上で新たなリスクを生むこともありますし、放射性物質の含まれた食品を避けようとしても、食品の選択肢が狭まり、生活の質を落としてしまうリスクがあります。場合によっては科学的に見て効果が無い、怪しい放射能対策にはまってしまう可能性もあります。
同じように、TPPに参加しなくても、それはそれで新たなリスクがあると思います。外交関係の悪化や企業の競争力低下もその一つでしょう。また、他国がTPPに参加して日本だけ参加しない状況だと、日本だけが貿易自由化や規制緩和による長期的な生産性向上を得られないことになります。この差は1年や2年では小さな物ですが、数十年経つと大きな差になります。これは大きなリスクでしょう。


だから、単純にTPPに反対するだけでは、リスクを避けようとして別のリスクを呼び込んでしまうことになると思います。どうもTPP反対論を見ていると、目立つけどあまり可能性が高くないリスクを避けようとして、目立たないけどより可能性の大きなリスクを呼び込んでいるように思えます。それが僕が感じたTPP反対論の問題点です。

*1:しかし、今の野田政権や財務省・日銀は金融政策・財政政策によるデフレ・円高対策については全くの無策です。僕はこの点は徹底的に批判しています。20年もの間、日本がデフレ・不況のままであるのも、財務省と日銀が経済学に反した政策を続けてきて、政府がそれを正すことができなかったからだと考えています。

*2:もちろん、原発に近く放射線量が高い地域の人が避難することや、科学的に見て放射線量が高い食品を避けることは、これとは全く別の話で、当然考慮すべき事です。