クルーグマン発言で思ったこと
風邪をひいたり、個人的な事情があったりして、1月ほどブログの更新ができませんでした。いつも読んで下さっている方々には、申し訳ありませんでした。
さて、週刊現代に掲載されていたクルーグマンのインタビュー記事で、日銀に対してこれまでにない過激な発言をしたことが、話題になっているようです。
―今回の参院選で躍進した「みんなの党」の渡辺喜美代表は、2%のインフレ・ターゲットを掲げるとともに、これを達成できない時は日銀総裁の解任を国会で検討してはどうかと言っていますが、どう思いますか。
クルーグマン 我々は中央銀行の独立性をずいぶん擁護してきました。しかし今や、この独立した中央銀行が、失敗による面目失墜を恐れるあまり、自国経済のためになることすら、やらない存在となっていることが不況の大きな原因なのです。それは日銀だけではなく、FRBも同様です。国を問わず、根本的には組織に問題がある。自分の仕事、その本分を果たすのではなく、自分の組織上の地位や組織そのものを守ろうとしている。
中央銀行の独立性への介入に関しては、もはやあれこれ躊躇すべきではありません。日本のGDPデフレーター(名目GDPを実質GDPで割った値。経済全体の物価動向を示す)は、ここ13年間、下がりっ放しです。それなのに今、日銀が重い腰をあげないというなら、(その責任者たる総裁は)銃殺に処すべきです。
独占インタビュー ノーベル賞経済学者 P・クルーグマン 「間違いだらけの日本経済考え方がダメ」 | 経済の死角 | 現代ビジネス [講談社]
元々過激な発言が売り物であるクルーグマン氏のことですから、さすがに「銃殺に処すべきです」というのはジョークだと思います。ただ、僕はこの発言を読んで、かつての日本では、本当にクルーグマン発言のような時代があったことを思い出しました。
それはかつて濱口政権によるデフレ政策や高橋財政によるリフレ政策、そして戦争に向けた軍事予算の膨張が行われた1930年代です。実はこれらの経済政策の転換は、この時期に頻発したテロやクーデターをきっかけとして起こっています。*1
関連する事件を年代順に並べると、次のようになります。
1929年7月2日 | 濱口雄幸内閣発足(井上準之助蔵相就任) |
1929年10月24日 | 暗黒の木曜日(世界大恐慌の始まり) |
1930年1月11日 | 金解禁(金本位制復帰) |
1930年11月14日 | 濱口首相狙撃事件 |
1931年4月14日 | 濱口内閣退陣 |
1931年8月26日 | 濱口首相死去 |
1931年12月13日 | 犬養毅内閣発足、高橋是清蔵相就任、金輸出再禁止の決定(金本位制からの離脱) |
1932年2月9日 | 血盟団事件(井上元蔵相暗殺) |
1932年5月15日 | 5・15事件(犬養首相暗殺) |
1932年11月 | 日銀による国債引き受けの実施(リフレーション政策) |
1935年 | 高橋蔵相が公債漸減主義を打ち出すが、軍部の抵抗に遭う |
1936年2月26日 | 2・26事件(高橋蔵相暗殺) |
1936年 | 廣田弘毅内閣発足、馬場鍈一蔵相による公債漸減主義の放棄、これ以降軍事費の増大に歯止めが掛からなくなる |
このように、濱口政権時代の金本位制復帰とそれに伴うデフレ、高橋財政時代の金本位制離脱、リフレ政策とその後の景気回復に伴う出口政策(公債漸減主義)、そして廣田政権以降の軍事費の増大など、それぞれの政策転換のきっかけは、ほとんどが政治指導者の暗殺でした。正にクルーグマン発言のようなことが本当に行われていた時代であったと言えるでしょう。そしてそのような時代の末路は太平洋戦争敗北という破滅でした。
このような歴史を考えると、いくらリフレ政策が望ましくても、その実現は民主主義の中で行われなければならないことを痛感します。高橋蔵相はもちろんテロとは無関係ですが、皮肉にも高橋財政開始のきっかけとなったテロが、最後には高橋財政を台無しにする原因ともなってしまったわけです。
元々、リフレ政策は、このような大恐慌時代の歴史の研究によって、その政策の効果を実証してきました。だから、きちんとリフレ政策の背景を知っている人であれば、まさかクルーグマン発言を真に受ける人はいないでしょう。ただ、もしこのままデフレ不況が続いてしまうと、いずれは全然別の所からテロという手段に訴える者がでるのではないかという、一抹の不安は拭えません。
民主主義を守るためにも、そんなことになる前にデフレ不況から脱却したいものです。
*1:この間の経緯については、田中秀臣氏の「デフレ不況 日本銀行の大罪」を参考にしました。