重商主義が生んだトランプという怪物
米大統領選の共和党予備選は、2位、3位だったクルーズ氏とケーシック氏が撤退を決め、ドナルド・トランプ氏が共和党候補者となることが確実になりました。すでに民主党の候補者となることが確実であるヒラリー・クリントン氏と、本選挙で次期大統領の座を争うことになります。
しかしすでに様々な報道で指摘されているように、このトランプ氏は非常に問題の多い政策を主張しています。メキシコからの不法入国者を防ぐために、国境にメキシコの費用で壁を建設させることや、イスラム教徒を完全に入国禁止することを主張しています。
また、日本や韓国、ドイツなどの同盟国に、米軍駐留経費を全額払うように主張しており、同盟国の反発を呼んでいます。
共和党の大統領候補になることが確実になったドナルド・トランプ氏。5月4日、日本に米軍が駐留し続けるならば、全費用を日本が払うべきだと断言した。トランプ大統領就任が現実味を帯びる中、その発言に世界の注目が集まる。
日本には5万人近くの米軍が駐留する。駐留経費に関して、日本は2016〜20年度に総額9465億円を負担することで合意しているが、これは労務費や光熱費など全体の一部に過ぎない。
現実味を帯びるトランプ大統領 米軍駐留費用「日本が全額支払うべき」と断言 (BuzzFeed Japan) - Yahoo!ニュース
一方、対立する中国やロシアに対しては、関係の立て直しが必要だと言っています。
アメリカ大統領選挙に向けた共和党の候補者選びでトップを走るトランプ氏が外交政策について演説し、アメリカ軍が駐留する日本などの同盟国には経費の負担の増額を求めていく考えを改めて強調する一方で、ロシアと中国に対しては関係の立て直しが重要だと主張しました。
野党共和党の大統領候補を決める指名争いでトップを走る不動産王のトランプ氏は、27日、首都ワシントンでみずからの外交政策について演説しました。この中で、トランプ氏は、オバマ政権の外交政策によってアメリカの経済力と軍事力が衰えたなどと主張したうえで、もし自分が大統領に選ばれればアメリカの国益を最優先に掲げるアメリカ第一主義の外交政策を打ち出すと発表しました。
そのうえで、アメリカ軍が駐留する日本やヨーロッパなどの同盟国に対しては、「防衛にかかる費用を支払わなければならない。支払わないなら、自分たちで防衛させなければいけない」と述べ、経費の負担の増額を求めていく考えを改めて強調しました。一方で、ロシアと中国については、大きな問題があるとしながらも、「敵対関係になってはならず、共通の利益を見いだすべきだ。ロシアとの関係改善は可能だし、中国との関係を立て直すことも重要だ」と述べ、両国との関係の立て直しが重要だと主張しました。
トランプ氏 日本に負担増求め中ロ関係立て直しを | NHKニュース
利害を共有する同盟国を増やし、共同で利害が対立する国と対抗するのが、安全保障の基本のはずなのですが、トランプ氏の方針はこれとは真逆の結果を招いてしまうでしょう。
さらに先に述べたメキシコとの対立も中南米諸国との対立に発展しかねないです。
そしてイスラム教徒の入国禁止は親米派のイスラム教国を敵に回してしまうでしょう。その結果、利益を得るのはアメリカの敵である、IS(イスラム国)のようなイスラム過激派です。
トランプ氏の方針はユーラシア大陸やその周辺の同盟国を離反させ、この大陸を対立している中国、ロシア、イスラム過激派に譲り渡す結果になりかねません。
これほど倒錯した安全保障政策はないと思うのですが、なぜトランプ氏はこのような政策を主張しているのでしょうか?
その疑問を解く鍵は、実はかつての日米貿易摩擦にあると思います。
トランプ氏の日本批判が、1980年代の日米貿易摩擦の時と同じであるという指摘があります。また、安全保障についても、1980年代から今のような日本批判を行っていたそうです。
実はアメリカの対日貿易赤字は近年減少しているのですが、トランプ氏はそのような都合の悪い事実には目を向けないようです。
米大統領選への出馬の意向を表明し、現在、共和党の候補者指名争いをリードするドナルド・トランプ氏は、選挙活動でしばしば日本批判を繰り広げている。氏によれば、日本はアメリカとの通商、また安保同盟において、不当に利益を得ているというのだ。通商問題での氏の日本への批判は、かつての日米貿易摩擦の時代のようだとの指摘がある。また氏は不均衡な安保同盟への不満を、1980年代からすでにアピールしていたという。その反面、トランプ氏には、昨今の中国の経済的、軍事的台頭によって、アジアにおける日米同盟の重要性が増しているとの認識は薄いようだ。一部米メディアや識者が、その点からトランプ氏の主張に反論を行っている。
トランプ氏の日本観は80年代のまま? 繰り返される日本批判、現地メディアが内容を論難 | ニュースフィア
しかし政治リスク・アナリストのトバイアス・ハリス氏は、日本がアメリカを食い物にしているというトランプ氏の主張はまったくの間違いで、経済上の利害関係においては、今日の日米間にはこれまでにない歩み寄りが見られると述べる(USAトゥデイ紙)。米商務省によれば、2015年の対日貿易赤字は686億ドル(約7.9兆円)で10年前の897億ドル(約10.3兆円)よりほぼ3割も減少した。アメリカの対中貿易赤字、3660億ドル(約42兆円)と比較すれば、いかに小さいかが分かる。米国議会調査局の2014年の報告書では、この10年間で日米は貿易摩擦を減らすための努力をしてきており、両国の経済関係は、「力強くかつ互いに有益」と結論づけている。
「アメリカをもう一度偉大な国に」と叫び、雇用を取り戻すと約束するトランプ氏だが、米週刊紙Barron’s(電子版)によれば、2014年には日本の自動車会社は140万人の米国人を米国内の工場で雇用しており、年間850億ドル(約9.8兆円)以上の給与を支払っている。また、日本は1兆ドル(約115兆円)以上を米国債に投資しており、中国とともにアメリカの借入費用を下げていることも、同紙はトランプ氏が忘れている点だとしている。
このような意見を聞けば、トランプ氏の日本悪玉論には説得力がなく、日米が貿易摩擦解消に向けて続けてきた努力を台無しにする主張だと言える。
トランプ氏の日本に関する誤った言説が及ぼす脅威 信じた大衆に合わせて他の候補者も… | ニュースフィア
このように「日本がアメリカを食い物にしている」という主張は、「重商主義」という古い思想に基づくものです。
貿易と国家の繁栄を結びつける思想は、イタリアの諸都市において15世紀には存在していた。フィレンツェ共和国の外交官でもあったニッコロ・マキャヴェッリの『リウィウス論』や『君主論』、イエズス会の司祭であるジョヴァンニ・ボッテーロ(英語版)が書いた『国家理性論』において、そうした思想が展開されている。16世紀以降になると、ヨーロッパ各国で、貿易での優位が国内の利益につながると考えられるようになった。
17-18世紀のイギリスで隣国の発展を脅威と捉える人々が現れ、重商主義という経済思想が形成された。重商主義の主な考え方は、輸出はその国に貨幣をもたらすが輸入はもたらさないため、輸出は良いが輸入は良くないというものである。重商主義の基礎には近代国家があり、それを支える感情は愛国心、ナショナリズムである。重商主義は自国と他国を比較し、国家間に敵対関係を想定するものであった。
重商主義 - Wikipedia
このように輸出を善、輸入を悪とし、貿易での優位によって貨幣を獲得することが国家の利益に繋がるという考え方は、日米貿易摩擦の時にアメリカが主張した考え方そのものです。トランプ氏の考え方は、この重商主義をそのまま受け継いでいると思います。
このような重商主義の考え方は、過去の経済学者によって何百年も批判されてきました。経済学の父と呼ばれるアダム・スミスは重商主義を批判し、貨幣の獲得ではなく国民労働の生産力の増大のために貿易を行うべきだと主張しました。また、リカードは比較優位の概念を確立し、各国が自国が優位な産業に特化して貿易を行うことで、生産力が増大し、国際的に豊かな経済が実現できると主張しました。
現代でも経済学者の間には多くの意見の相違がありますが、重商主義が間違いであるという点については、ほとんど全ての経済学者の意見が一致するでしょう。
このように経済学の歴史は重商主義を批判、克服する歴史であったとも言えると思います。
しかし重商主義はどれだけ批判しても蘇り、日米貿易摩擦やトランプ氏の台頭のような現象を引き起こします。
このブログでも何度か紹介した経済学者、若田部昌澄氏は、やはりここで何度も紹介している松尾匡氏の論文を引用して、重商主義が人々を惹きつける理由を考察しています。
こうした人間観はアダム・スミスにも共通する。『道徳感情論』の冒頭はこうだ。「いかに利己的であるように見えようと、人間本性のなかには、他人の運命に関心をもち、他人の幸福をかけがえのないものにするいくつかの原理が含まれている」。ここでは、利己的であると同時に他人を気にする存在として人間が描かれている。
スミスは、他人を気にする存在である人間には、他人の感情や行為を評価する作用が備わっているとする。それが「同感(sympathy)」である。ここからスミスは社会秩序の基礎である正義がいかに生まれるかを描く。人々は他人に見られ、他人を見ることで「胸中の公平な観察者」を形成し、他人の感情や行為が適切かどうかを判断し、ひるがえって自分の行為を判断する。正義や義務の一般的規則の基礎にはこうした心理的作用があるとスミスは考えた。
しかし、人々の同感能力には差がある。自分に近しい人と、遠い人に対して同感する力は変わる。また、「胸中の公平な観察者」の人は正義と義務の感覚を有するにもかかわらずそれを守ることができず、他人の世間的な評価に負けたり、あるいは「胸中の公平な観察者」の助言を無視して自己欺瞞に陥ったりする「弱い」存在でもある。
こうしたスミスの考え方は、最近では行動経済学者から高く評価されている。行動経済学流にいえば、スミスの出発点は、バイアスを持つ存在としての人間であるとみなせる。また、「同感」と「胸中の公平な観察者」は、脳科学者にとっても新鮮な刺激を与えてくれるものと映るという。
ところで松尾匡立命館大学教授は、反経済学的発想の典型的構造を3つにまとめている。
(1)操作可能性命題:世の中は、力の強さに応じて、意識的に操作可能である。
(2)利害のゼロサム命題:トクをする者の裏には必ず損をする者がいる。
(3)優越性基準命題:厚生の絶対水準よりも、他者と比較して優越していることが重要である。
対して経済学的発想は、次のように特徴づけられる。
(1)自律運動命題:経済秩序は人間の意識から離れて自律運動した結果である。これを人間が意識的に操作しようとしたら、しばしばその意図に反した結果がもたらされる。
(2)パレート改善命題:取引によって誰もがトクをすることができる。
(3)厚生の独立性命題:他社と比べた厚生の優劣よりも、厚生の絶対水準の方が重要である。
こう整理すると、スミスの行ったことは「要するに重商主義の『反経済学の発想』に対して『経済学の発想』をぶつけているのだ」ということもよくわかる。
前回述べたように重商主義の基礎には近代国家がある。そしてそれを支える感情は愛国心、ナショナリズムである。重商主義は徹底的に自国と他国を比較し、その間に敵対関係を想定するものであった。スミスは、祖国愛を否定するわけではない。自分の身の回りの人々に愛を感じることは自然であり、必要でもある。しかし、それが偏狭な国民的偏見をもたらす可能性を見過ごすこともなかった。「我々の愛国心は、他のあらゆる近隣国の繁栄や拡大を、もっとも悪意に満ちた妬みや、羨望をもって眺めようとする気分にさせることが少なくない」。スミスの同時代には、イングランドとフランスとの対立には激しいものがあった。
ただ、反経済学的発想は、行動経済学で説明可能だ。そして同感を基礎に置くスミスもそれに近いことを理解していたと思われる。誰もが子供の頃いじめっ子にいじめられたり喧嘩をしたり、社会人となっても世間で苦労をして、力の強い者と弱い者の違いを骨身にしみる。他人を気にするように他国を気にするのが人間であり、妬みや敵意もそこから生じる。重商主義の「わかりやすさ」の中には、人間が人間であるがゆえにもつ各種のバイアスが寄与していると考えられる。
書斎の窓 | 有斐閣 連載 経済学史の窓から 第6回 ヒューム、スミスは行動経済学の先駆者か? 早稲田大学政治経済学術院教授 若田部昌澄〔Wakatabe Masazumi〕
このように愛国心、ナショナリズムと「反経済学的発想」が結びついたところに重商主義が生まれ、それは人間が持つ各種のバイアスによって支えられているという考え方は、僕もその通りだと思います。
トランプ氏もまた「反経済学的発想」が考え方の基礎になっているのでしょう。だから自分の意見を否定する事実を否定して、重商主義的な考え方に固執するのでしょう。
トランプ氏の場合、特に「利害のゼロサム命題:トクをする者の裏には必ず損をする者がいる」という考え方が強いと思います。貿易も安全保障上の同盟も、「パレート改善命題:取引によって誰もがトクをすることができる」という考え方によって行なわれているものですが、トランプ氏はそのような考え方を否定して、「日本がトクをするなら、アメリカは損をしているに違いない」と考えているのでしょう。(これは相手が韓国やドイツでも同じことです)
だから日本などの同盟国を「アメリカからカネを盗む泥棒」と考え、それをやめさせるために同盟国に厳しい姿勢になるのでしょう。
一方、中国、ロシア、イスラム過激派のような対立国については、少なくとも安全保障面では利害のゼロサム命題が成り立っています。だからトランプ氏が大統領になっても外交関係には何の変化もなく、むしろアメリカと同盟国の関係悪化から利益を得ることになります。
このようにトランプ氏が「反経済学的発想」、特に「利害のゼロサム命題」に固執していることが、トランプ氏の外交政策を倒錯したものにしていると思います。
ただ、トランプ氏がこれだけ支持を受けているということは、アメリカ国民の中でも「反経済学的発想」が広がっているのでしょう。その理由は、貧富の差の拡大や中間層の没落により、これまでの経済政策が支持を失い、それに伴い「経済学的発想」も支持を失っているためでしょう。「反経済学的発想」は人間が持つ各種のバイアスによって「わかりやすい」思想になっているので、このような状況は「反経済学的発想」が広まりやすいのだと思います。トランプ現象もその反映なのでしょう。
しかし、その「反経済学的発想」に基づく政策は、明らかにアメリカや同盟国の国益を損ねます。その理由を理解するためには「パレート改善命題」を始めとする「経済学的発想」を理解する必要があります。
従って、かつてアダム・スミスやリカードが重商主義を批判したように、世界中の経済学者や、「経済学的発想」を理解する人たちは、「反経済学的発想」の表れであるトランプの台頭を批判すべきだと思います。
世界を「反経済学的発想」が支配する時代に戻してはいけません。もしトランプ氏が大統領になったら、その政策を徹底的に批判して、その問題点を暴いていくべきでしょう。
経済学という思想は、何度も蘇るゾンビのような「反経済学的発想」を、封じ込める戦いを繰り返す宿命なのでしょう。